復曲プロジェクト

復曲プロジェクト

復曲の実際 めりやす「松むし」の復曲にあたって

 今回の復曲にあたって考慮しなければならない点はいくつかありました。 まずそもそも「めりやす」とは何か。
 これには諸説あり、今日でも決定づける説は確立されておりません。音楽 のことなのか役者側の所作のことなのかすらはっきりしていません。しか し「めりやす」に分類される現存曲から浮かび上がる音曲的イメージは現代 では誰もが一致しているようで、その範疇に収めるのが常套手段と言えるで しょう。
 ところがこの曲の場合、時代は遥か宝暦。研究者によれば現代の我々が知っ ている芝居のあり方とは違うようで、しかも現存曲は僅かで調弦も本調子、 二上り、三下り、さらには上調子入りであったり様々。今回は本調子で上調 子入り、現存曲に前例はありません。
 大名題から芝居全体の内容、登場人物の属性、いかにしてこの劇中曲に至 るのかはわかっているので、考えることは純粋に作曲のテクニカルなことだ けとなります。曲の構成としては、中程「ゆく船の」で二つに分け、その間 に「合の手」を挿入しました。現存曲によくある形です。
 めりやすの中に置かれる長い合の手は、その出来映えが曲のその後の運命 を左右することもあり、作曲者のセンスが問われるように思います。古典曲 には素晴らしいものが残されています。
 次にこの作品の正本に記された「文字譜」の類をどう反映させるかです。
 これも現存曲から分析する試みがなされているものの、音の高低や一塊の 旋律などが同じ指示でもまったく違う音であったりと、具体的に絞り込むに は至っていないのがほとんどです。
 今回登場した文字譜は「ハルキン」「中キン」「一中カカリ」等現存曲にも よく出現するものばかりですが、先述の通りいずれも判然としない物ばかり なので、思案の末に現存曲から挙げられた例を一つ選び、それと同じくする、 あるいは近い音にする、また時には作り始めた曲の成り行きによっては無視 することにし、復曲であること、とはいえ一楽曲として不自然な仕上がりに ならないよう均衡を図りました。
 もう一つには、作曲したとされる人物の他の作品との関連、これもまた重 要な事柄で、同じ作者なら似る箇所があるであろう、あるいは同じ作者故に あえて違う作風にするであろう等いろいろと考えられますが、今回は個人的 な好み、判断により長唄「菊慈童」の一節を、曲中「ただ一人」という部分 に少々アレンジして拝借いたしました。
 また同じような事柄として、同時代の他の人の作品、また他のジャンルの 作品群の考察も重要なファクターであると考えます。この宝暦期には長唄「京 鹿子娘道成寺」や河東節「助六所縁江戸桜」など以後歌舞伎界に大きな影響 を与える、大掛かりで完成度の高い作品が作られており、業界全体に成熟し た感が窺えます。新しい味を試すというよりは、失敗のできない熟練した仕 事が要求されていたのかもしれません。
 以上のように、作曲にあたる際に守るべき、注意すべき事柄が揃いました。 が、さりとて具体的なメロディーが炙り出されてくるわけではありません。 唯一絶対的な材料である歌詞を前に、これらのぼんやりした道標を念頭に、 霧の中を探るように作業を進めた結果出来上がったのが今回の「松むし」で す。
 復曲という使命を背負いながらも、随所自分なりの解釈や作為に依った点 は許していただきたいところです。「文字譜」など考慮すべき材料があると はいえ、その意味が不明である以上、無いに等しいのです。
 一つだけ確信しているのは、いつの時代も作者達は皆いい物を作りたいと 思って取り組んでいたであろうということです。私も及ばずながら、心身を 削る思いでこの短い「めりやす 松むし」の制作に挑みました。正直、聴い てくださった方々がどう感じられたかが一番気になるところです。
 消えてしまったその当時の音が蘇ることは決してありませんが、人が人の 心を掴もうと作品制作に打ち込むポリシーは今も昔も変わりはありません。

松永 忠一郎
(2020年12月「今藤政太郎 復曲プロジェクト〈6〉」プログラムより転載)

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