エッセイ

思いつくままに…
この度の「富樫」上演にあたって

 この度の創邦21の会、全同人がオリジナルの曲を一人一曲ずつ作曲するという、今までにも例のない課題に向けて取り組んでいる。
 その様子を同人同士が楽しんでいるようである。全同人が何しろ火の玉と化しているようである。僕は一人だけその輪に入れず傍観している。

 僕は今回、「富樫」という作品を出す。
 「勧進帳」で関守富樫が何故身を賭して義経主従を逃したか。彼とても優秀な官吏だったに違いない。その優秀な官吏が、何故我が身を捨てて義経主従を助けたのかをずっと考えてきた。
 それは勧進帳を見る人のそれぞれによって違うかもしれない。能の「安宅」では助けたのではなく騙されたという解釈だったらしい。
 どうして今の様な疑問符無しで主従を助けたという解釈になったのであろうか。

 それは見物衆の願いが反映されたのであろう。日本人のほろびの美学に寄り添って、解釈が今のように変わっていったのであろう。曰く、判官びいきである。富樫も民衆の願いに突き動かされ、判官びいきになっていったに違いない。

 今まで書いてきたのは、ほとんど、「安宅の関」のことへの今藤政太郎の解釈を述べたものである。
 本来の「勧進帳」ではひとしおの思い ( ・・・・・・・)(義経弁慶の主従愛)で義経主従を見逃した富樫が、その後、義経主従が奥州の平泉衣川において幕府の軍勢によって敗れたことを聞いた時、かつての安宅の関のことを思い出しそのことを述懐して唄ったり楽しんだり悲しんり喜んだりしながら、「勧進帳」の演奏に合わせて語るという上演スタイルを、僕は考えた。なお、語ったり唄ったりする富樫の役は、直𠮷改め杵屋喜三郎氏にお任せした。
 僕はひそかに新喜三郎氏に、祖父に当たられる十四世杵屋六左衛門師の、かの超演「かぶとの下のきりぎりす」の再現を期待している。

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